〜目譜〜

慈譜(いつくしみのうた)…aphorism

恋唄(あいのうた)…aphorism

我心−無垢−(わがこころのままに)…essay

OnTheWay−ぼくらはいつも道の途中−…essay

おひさまゲーム…essay

 


…アフォリズムのことについて、少し。
 アフォリズムは、直訳すると、「格言」となりますが、僕の書いているものはそれと少し違います。
基本的に僕のやっていることは、「歳月(とき)の落ち穂拾い」です。
誰かが吐いた科白、誰かが残した大事な言葉を、歳月が取り残して行くのが惜しくて、拾い集めています。
 誰にでも出来ることです。忘れたくない言葉が見つかったら、小さなノートに書き写すのです。素晴らしい出来事に出逢ったら、その想いを一言でいいから、言葉にしておくのです。
 そうやって、積み重ねた言葉たちはそれ自身が命をもつことによって、くじけそうな自分を奮いたたせてくれるのです。自分自身の言葉に救われるなんて、なんだか変な感じですが、僕はそうやって、出来るだけ自らの魂を汚さないように歩んできました。

ひとりの詩人が、その人の人生を変えることがある。僕がうたを唄うようになったのは、一人の詩人がきっかけでした。

ここにUPしている独特の短文詩を、アフォリズム(断章)と呼んでいます。
これは、中学生の頃に書いていた散文詩からの発展型で、ようやくこの形が一番僕の心を伝えることができるものとして、自分の中で確立した成果物となっています。
 この「言葉拾い」を始めたのは、中学生の頃に「哀詩」を綴ったときが初めてです。この頃は、僕は周りのみんなからとても嫌われていて、それが何故なのか分からず苦しんでいる頃でした。人間関係で傷付くことばかりで、とても自分自身が嫌いでした。自分自身を自虐的に苛むことで自己を慰めていたのかもしれませんが、このころに「哀詩(かなしみのうた)」と題した20編ばかりの詩を綴ったのです。
例えば、こんな詩…

         −雨街坂−

雨街坂に霙(あめゆき)は舞ふ 夜の静寂に霙は舞ふ
消えかかった街灯の灯が   我が家路を照らす
掌の温もりで        霙は溶ける
しっとりと         音を立てずに
ただ それだけ…
雨街坂に霙は舞ふ      ただ冷たく霙は舞ふ

         −北風−

御前は 何故そんなに 冷たいのか
御前は 何故そんなに 動く物を嫌うのか
嗚呼 北風よ
僕の心を突き抜ける

 自分を護るために、自分を道化とし、決して自分を見せず、化粧のしたで歯ぎしりをしていた。それでも僕は、嫌われ続けた。生きるのが辛かった。
 …「道化師」に対して、僕は実に五年もの間、ずっとこだわりがあった。道化に近づこうとし、他人の笑顔を見ながら、自らの心を涙で濡らし続けた。哀しい詩が、そこに生まれた。14の冬のことでした。

 19の春に僕は気付いた。無理をすることは何もない。無理なことは何もない。そして哀しみの詩は終わりを告げる。

 19才の春に、僕は一冊の本と出逢った。
「二小節の詩(うた)」と書かれたその本のなかにある、365編の断章が、頑なであった僕の心を溶かした。何度も読み直し、そして何度も泣いた。

 僕は今までの自分に決別する勇気を、その一冊の本から与えられた。
自分の欠点を認め、冷静にひとつひとつ修正していく。
人を好きになることはプラスエネルギーであり、嫌いになるのはマイナスエネルギーであるから、人と出会うとき、欠点から理解して付き合うようになった。
「誰か」ではなく「あなた」と向き合う。優しさが許容量であることを学んだ。自分を大切にするのと同じように、あなたを愛することに努めた。
自分に厳しいひとは他人には寛大であるように、またそうでないといけないと思うようになった。
心の扉は、まず自分から開ける。
「信じる」事に制限を設けない。
しあわせは、「倖せ」であり、あなたがいなければ倖せではない…

 今、「哀歌」→「慈譜(いつくしみのうた)」→「恋唄(あいのうた)」と進化した僕の心のうたは、第4段階「逢歌」にはいった所です。このことばたちを借りて、少しだけでも「えいてん」を感じてもらえたら嬉しいな。